マーベル映画『エターナルズ』を観てきた。

【本記事は以下ネタバレを含みます。ネタバレを避けたい方は今すぐお手持ちの端末を噴火口に投げ入れていただければネタバレを回避いただけます】
『エターナルズ』はMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)第26作目の映画。
感想ブログなので詳しい解説は差し置いておく。解説が読みたい方は、別の記事を検索いただくことをおすすめする。
私がこの映画から受け取ったメッセージはこう。
ディストピア(管理主義社会)からの解放の鍵は、やっぱり愛だな、愛。愛は地球を救う。
だ。以下、感想の説明を書く。
『エターナルズ』は現代の人類メタ認知映画だ。
メタ認知の説明をする。たとえばあなたが怒っているとして「あぁ、自分は今すごい怒っているな」と客観的に認知すること。
すごい酔っている人に「すごい酔ってるね」と言っても、「いんにゃれんれん酔ってないお」などと言い返される。つまり酔っている人は自分をメタ認知できていないということになる。
いや、これは酔ってるのを認めたくない人なだけだ。すぐ話が逸れてしまう。いま話を逸らした自分を認知した。気をつけよう。これがメタ認知。
などと、メタ認知することで冷静に物事が判断できたりする。
MCUはサノスフェーズを経て、メタ認知のレイヤーがググッと上がったと思う。
エンターテイメント娯楽分野でこんなテーマやってるの、ほんとに「すげー」と思うし、やる大切さを重要視してるとも思える。
地球で7000年もの間、ディビアンズから人類を守ってくれていた彼ら(エターナルズ)が、自分たちの存在の本当の意味を知った時に多数決で選んだ選択は「人類を守る」ことだった。
地球で7000年もの間、人類と共に過ごしている彼らは、人間の賢さと愚かさ、清濁どちらも見続けていた。
暴力、略奪、戦争を延々と繰り返す人間を見て、時に「こんなやつらを救う価値があるとは思えない」と言う。これは人類史のメタ認知的な感想でもある。
そして時に「どんないかなる大義があっても犠牲を生み出すことは許されない」とも言う。
これは、ナショナリズムとイデオロギーとテクノロジーの融合で起きてしまった人類史上最大の惨事「世界大戦」を経て私たちが学んだことでもある。そのメタ認知的なセリフだ。
サノスフェーズでもイデオロギー(社会思想)ベースによる虐殺は語られたテーマだ。
サノス編では、サノスという大きな権力・独裁・思想に対して、共存・共生をかけて力と知恵を合わせて立ち向かうという構図だった。
サノス以降MCUを進める上で「さらなる脅威」が必要になる。
こんなこと書くと元も子もないが、その脅威から地球や人類、宇宙全体さえも守っていくのがMCUのヒーローたちだからだ。
映画『エターナルズ』からメタ認知のレイヤーが上がったと書いたが、新たな脅威「セレスティアルズ」の存在が理由だ。
セレスティアルズはエターナルズの生みの親、かつ上司でもある。
サノス編はサイコパス独裁者との戦いだったが、セレスティアルズは「ズ」なだけあって複数存在している。
いわば大企業の役員たちって感じ。宇宙を運営している役員たち。人間にしたら宇宙人より「神」に近い存在なのかもしれない。
事業拡大をするためには惑星ひとつぶっ飛ばすことを辞さない役員たちに、それは「パワハラだ(非人道的だ)」と対抗する社員ことエターナルズ。「社員は社員らしく役員に従って仕事してろ」とセレスティアルズ。
エターナルズの中には、上司に忠実な社員もいるし、反抗的な社員もいる。さらにはLGBTQなどマイノリティーメンバーもいる。俳優たちの人種もバラバラだ。
まさにメタ認知の構図。私たちが目指す未来。理想のダイバーシティ。
セレスティアルズは人を人と思わず自分達に必要なただのエネルギーと捉えている。それを自分たちに都合よく管理したいだけ。
管理社会のディストピア性はマトリックスやブレードランナー、マッドマックスでも語られていた。
本作での管理社会への対抗は、他者への愛、家族への愛、友人への愛。自分たちが自分たちらしくあることだった。
私たち人間も7000年をかけて辿り着けたダイバーシティの実現を切に願いたい。
少なくとも私は、その方向に人生のエネルギーを少しでも使いたい。私たちが「永遠」に地球で暮らしていくために。
以上、『エターナルズ』から受け取ったメッセージの感想でした。
それにしてもキャスティングが良かったなー。とくにバリー・コーガンのドルイグ。
次回のMCU映画、スパイダーマン ノーウェイホームも楽しみだ(それまでにヴェノムもマトリックスもキングスマンもある喜び)