本記事はラストシーンに言及しているため、作品をご覧になられてからお読みください
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そもそも書けるのか。
果たして俺はこの映画の感想を書けるのだろうか。
見えすいたような言葉で感想を書いても、この映画の凄さ、素晴らしさなんてひとつも伝えられないのではないか。
そもそも分かったつもりになって伝えようとすること自体、傲慢で浅はかなことなんじゃないだろうか。
言葉になんてできない。
率直な感想はこうだ。
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しかし書いてみる。
傲慢で浅はかなことを受け入れた上で、この映画を観た気持ちに向き合ってみる。
書き留めたそばから、考えや捉え方が時を経て移り変わったとしても、この瞬間をここに書き記しておこう。エゴも含めて。
時を経て、自分が読み直し、客観的にその傲慢さを見つめるために。
誰かのための感想じゃないところも含めてエゴイスティックなブログだ。
そういう場所があったっていい。インターネットは温かくて優しい。
この感想は自分のための記憶・記録だ。あなたのためではない。
私のエゴなんかに興味はなく、自分自身と向き合いたい人の方がほとんどだと思う。
そんな方はこれを読まず、この映画を観て、率直にどう感じるか自己のエゴと利他の精神に向き合ってみて頂きたい。切に願う。
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本作を2000年19歳の冬に劇場で観た。あの衝撃から21年 。
日本国内での劇場上映権の期限が間もなく切れる。大きなスクリーンとサラウンドスピーカーでこの映画を味わえるのは最後になるだろう。
アマゾンプライムやNetflixでも観ていたが、また劇場でこの映画を観たかった。

大人になる前の未熟な私が初めてこの映画を観た時は、人間のグロテスクな「悪」や「儚さ」の部分ばかりに目がいっていたなぁと、今となれば思う。
あれから21年。40歳になった私が今この映画を観て感じたことは人間の「悪」より「善」の方だった。それが心の底に残っていたから「また観たい」と自然と思えたのかもしれない。
家族への深い愛、友情、人の善意。
あえて言葉で書くと安っぽくなってしまうから、率直な感想は「言葉にできない」ということなのだけれど、歳をとってひしひしと本作から感じるのは「悪」よりも「善」だった。
善人が恐怖に慄きながらも、自らの善を信じきって死にゆく様は、メル・ギブソン監督がイエス・キリストの処刑を描いた『パッション』や、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』の殉教を彷彿とさせた。
それはビョーク演じる主人公・セルマが、通気口から聞こえてくる教会の讃美歌に耳を澄ませていたことに起因する。
救いがないような状況で見えにくくなってしまうけれど、冷静によくよく観てみれば、善人の善意に周りは満ち溢れている。そんな気づきを得た。
悪意を断ち切るのは、善意でしかない。
「これは最後の歌じゃない。分かるでしょう?私たちがそうさせない限り最後の歌にはならないの」
本人がそう歌ったのなら、それは希望で、悪意よりも善意の方が脈々と引き継がれていくということになる。
視えているものしか信じないか、心の声を信じるか。誰しも自分次第だ。
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「ミュージカルって急に歌い出したり違和感あって変だよね」という意見を持つ方もいるだろう。
しかし、この映画での「ミュージカル」はどうだろうか。
音楽と歌の力を借りた夢や希望に違和感あるだろうか。変なのだろうか。
「ミュージカル」に真摯に向き合っていて背筋が伸びる。
誰しもセルマのように「ひとときのミュージカル」という音楽と歌の力を浴びて、日々の疲れや苦しみを忘れたりすることもあるだろう。
そんな「ミュージカル」の力を映画の中で真摯に描いている。
歌声も見た目もビョークだけれど、もはやセルマにしか見えない。セルマという人が存在して歌ったんだという風にしか思えない。そんな凄みがある。(特殊な撮影手法による演出もそれを感じさせる凄みがある)
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自らの死と子への愛を同時に感じながら高まる胸の鼓動でリズムをとって歌うことはできるだろうか。
セルマの人生と感情を実体験できたとしたら、果たしてその時に俺は歌えるのだろうか。言葉にできるのだろうか。
己に問い続けていきたい。
20年後、60歳になったら再びこの映画をみて、自分自身がどう感じるか向き合いたい。
40歳の俺は家路につく際に強烈な便意を催し、ダイナミックに漏らすかと思ったが、音楽も聴こえてこず、歌も歌えなかった。
ミュージカルのある人生を体現するには、まだまだ修行が必要だし、そもそもこんなことを書いてしまう時点で、やはり俺は最低な人間なのである。
以上、記録、記憶として残しておく。
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